ずぼらな僕だが、これだけは毎年必ず続けている。
3月11日の黙祷。
何があっても毎年欠かさない。外出していても、友達と会っていても。時間をとって1分間黙祷する。そしてこれはこれからもやめるつもりはない。
なぜ3.11だけ、と聞かれたら、「当事者だったから」としか答えようがない気がする。熊本だって、中越だって、この国で起こった大惨事であるはずなのに、僕はその存在を忘れてしまう。だけど「201103111446」という文字列を僕は淀みなく言える。
2011年3月11日14時46分。
今でもよく覚えている。僕は東京の小学5年生だった。6時間目の授業は算数。分数の問題を解いていた時に「それ」は訪れた。視界が揺れ始める。いつもの地震か。あれ?止まらない。どういうこと?え?どうしよう、このまま死ぬの? 揺れは6分続いた、らしいが、あの時の僕らには30分にも1時間にも感じた。一生この揺れは収まらないんじゃないか、とすら感じたのを記憶している。
もちろん東京にいた、という点では本当の当事者ではない。被災地の人々と比べたら僕なんて「偽物」だ。彼らを目の前にして「僕も当事者です」と胸を張って言えるほど鈍感に、そして傲慢にはなれない。東北の人々があの時経験したことは、僕が東京で感じた感情なんかと比べるのが失礼なくらい、激しく、残酷だ。東京は震度6弱と揺れこそ強かったが、まわりの建物は何一つこわれることも流されることもなかった。
でも、グラウンドで親の迎えを待つ不安な時間、友達の親が次々と迎えにきたけれど、僕の親はまだ来ない。彼らが崩壊した建物の下敷きになっていたらどうしよう、と泣きそうになりながら迎えを待ったあの時間。親と無事にに合流し家に帰ると、テレビが被災地の惨状を延々と映していた。自然の猛威が生活を破壊していく様を、へたりこんで見つめることしかできなかった。そして人間の生活を豊かにするはずの原子力が、人間に牙をむいたと、焦るキャスターの声が耳に入る。行き場のない憎悪、デマ、責任のなすりつけ合い、食材の高騰、延々と流れるACのCM、自粛ムード。明らかに「日常」ではないのに、そのなかで、無理やり「日常」が演じられていた。みんなどこかしら傷ついていて、その傷を隠そうともせず、生きていこうとしていた。僕らは、僕らなりの「当事者」だったんだと思う。
「当事者」は僕だけではなかった。東日本全体が、何年もの間当事者であり続け、いまだに当事者なのだ。そして、もしかしたら、いやものすごく高い確率で、それは一生まとわりつき続けるのかもしれない。
そういう意味で、あの黙祷は僕にとって、当事者として「あの時間」が確かにあったことを受け入れ、理解するための行為なのではないかとも思える。今年も僕らは、運命を恨み、苦しみ、そして自分事として深い祈りを捧げる◢