「生きづらい」ほうが生きやすい

どうやら俺は、周りから見ると「生きづらい」ように見える、らしい。

「らしい」と書いたのは自分ではそこまで生きづらさを感じていないからだ。子供の頃から、いろんなことにモヤモヤしすぎ、らしいがこれが普通だと思って生きてきたので特に支障はないし別に生きづらくもない。「俺としゃべってるときお前が話してた変な疑問集作ったからあげる」と膨大なリストをくれた。いやお前まとめてたのかよ。俺のこと大好きじゃん。ということでありがたく見ていくことにする。

テレビ番組の賞品で「〇〇一年分」とかいうが、それはいくつなのか?一日に何個ずつ食べる計算なの?ツナ缶のオイルはどのくらい捨てればいい?コストコの出口でレシートを見せなければいけないのはなぜ?テスト前のTwitterってなんであんなに楽しいのか。Yシャツにアイロンをかけるとき、「片腕かけるともう片腕がしわくちゃになる」を繰り返して永遠にアイロンかけ終わらないのはなぜだ。血液型占いは科学的に正しいわけないのに当たってる気がするのはどうして?湿度99%のときにちょっと空気を刺激したらいきなり水で埋め尽くされて溺れ死にそうで怖い。金箔を食べてもウンコが光らないのはなぜか?「複雑な気持ち」って結局どんな気持ちなの?

家出るちょっと前に完璧に髪セットしたはずなのにいざ家出るときに確認すると風呂あがりたてのおっさんにしか見えないのはなぜ?毎日あんな厚い新聞読み切れるはずないのに、どうして世のおじさんたちは毎日買うんだろう。みんな電車では端っこの席が好きなのは本能なの?高い買い物は躊躇するのに毎日Amazonで小さい買い物しまくって結局同じくらいの出費になってしまうのやめたい。スタバのレジで店員さんににこやかに話しかけられると後ろめたくなるのはなぜだ。雑誌を最初から最後まで一ページも残らず読み切る人はいるのか?読み切る前に次月号が来ちゃうんだが。

美容院で、美容師さんが襟足やもみあげなど細かい仕上げをしているときに雑談を振っていいのだろうか。集中力が削がれてデーモン閣下みたいな髪型になりやしないか。シャンプーのとき、ティッシュを顔に乗せられているのに美容師さんが話しかけてくるのはティッシュを吹き飛ばしてもいいから会話に応じろということなんだろうか。車が来る気配すらない横断歩道で、みんなどうして生真面目に信号待ちをするんだろう。読みたくて仕方がなかった本をさっき本屋で買ってウキウキで帰ってきたはずなのに、すでに積読タワーの一部と化しているのはなぜ?こたつに足だけ入れているはずなのに、どうして上半身は汗びっしょりで下半身は冷えたままなのか。カップ麺とかについてくるソース系の袋、底の方にちょっとソース残ってても味薄くならない分量設定になってる?それとも底にちょっと残ったとこまで完全に出し切らないと味薄くなる…?

いやめっちゃ生きづらそうだなコイツ誰だよ……俺…………????

思い出せば、クラスで一冊の課題図書を読んでも、感動を受けた場所が他のクラスメイトとは全く違っていて微妙な雰囲気になることが多かった。しかもそれを担任が「みんなそれぞれ違う読み方があっていいよね~」なんて言うもんだからさらに気まずくなったり。「みんなそれぞれ違う読み方」って、違うのは俺だけじゃねえか。

いや別にフォローとかいらないんですよ。あ、twitterのフォローはしてくれると嬉しいです(無理矢理) 「みんな違ってみんないい」的な雰囲気出して俺の”心の恥部”まさぐってくんのやめてくれ、って話ですよ。「お前だけ違うけどまあいいんじゃね」くらいのほうが逆に安心するわ。放っといてくれればなんでもいいです。

確かに「生きづらい」かもしれない。人が引っかからないようなところで足をとられ、立ち止まってしまう。でも、「生きづらさ」なしでは生きられない。きっと死ぬまでモヤモヤ、棺桶の中でもモヤモヤし続けてて家族に「おじいちゃん、まだモヤモヤしてるよ笑」とか言われるんだろうな。だけど、そうすることで俺は俺でいられる。「生きづらい」ほうが生きやすいのだ。

…という歌です。聞いてください、尾崎豊で『僕が僕であるために』◢

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