空気の感触、深呼吸、三ツ矢サイダー(2022/09/24記事)

久しぶりに夜の散歩に出てみようという気になった。引きこもりすぎてここ3日くらいは家から一切出ない生活でさすがにまずいと思っていたし、何より窓から吹き込む風がすっかり秋のものになっていて、「秋なら外に出てやってもいいかな」くらいの上から目線な気分になったのである。

時刻は22時半を回ったところだ。普段僕は23時過ぎに風呂に入るので、それまで30分ある。我が家の風呂はボタンを押すと10分後にはきれいな湯が張られている、というような文明物ではなく、湯船に栓をして、蛇口をひねって15分待つといういかにも原始的な代物だ。散歩から帰ってすぐに風呂に浸かりたい、だけど風呂の水位のために15分で散歩を切り上げるのはなんだか癪である、せめて30分はほっつき歩きたい、などと考えた末、名案にたどり着いた。「蛇口から出す水量を半分にすれば倍の時間(=30分)で湯が溜まるのではないか?」自分の頭脳に惜しみない賛辞を贈りつつ、蛇口を半分だけひねり、パーカーを羽織って、外に出た。

うーん、思っていたほど秋じゃないなあ。窓から入ってきて僕に「秋」を錯覚させたものは何だったのだろうか。秋の夜、と呼べるほど涼しくない。確かに「夏」ではない、けれど「秋」でもない。どこか秋になり切れていない「何か」の中を歩き始める。

僕はこの街が好きになれなかった。だけれど一つだけ好きなところ、それは今の季節の空気だ。軽井沢に似ているのだ。小さい頃、よく軽井沢に旅行に行った。親戚が別荘を貸してくれて、夏休み中そこにいることもあった。当時の「空気」の感触を僕は今でもよく覚えている。夜の「水分量」が多いのだ。夜露が木の葉についているだけでなく、空気までも艶やかに濡れている。ちょっと刺激したら雫が滴り落ちてきそうな空気の感触。草木が深呼吸しているときにだけ放たれるあの匂い。この街で、唯一僕を受け入れてくれる存在だ。

昔からの癖で、気が付くと息が止まっている。わざと止めているわけではない。気がついたら本当に呼吸していないのだ。苦しくなって慌てて息を吸い込み、肺を酸素で満たす。脈が速い。絶対健康に悪いだろう。そのうちどこかの血管が破裂するのではないかと不安になる(よくわからないが)。せっかく久しぶりにこの空気に触れているのだから贅沢に深呼吸をしてやろうと思いつつも、また気が付くと呼吸が止まっている。目の前のお好み焼き屋は、仕事終わりのサラリーマンたちでにぎわっていた。彼らはジョッキを酌み交わし、よくしゃべっている。むしろ俺は死んでいるのかもな。普段は死んでいて、死んでいることに気が付くとその間だけ生き返る、みたいな。そんな薄い文庫にすらならなそうな中身のないSFを頭の中で組み立てる。

自販機でサイダーを買った。三ツ矢サイダー。彼女といるときはカロリーゼロを買うから、緑色の三ツ矢サイダーを口にするのは久しぶりだ。「人生は、三ツ矢サイダーだ。」というキャッチコピーを思いつく。甘くて、酸っぱくて、しゅわしゅわして、でも時間がたつと炭酸が抜けて甘ったるいだけの長物になる。俺は今、三ツ矢サイダーで例えるならどのくらいの位置にいるのだろうか。炭酸はかろうじて残っているといいなあ、それともしつこい甘さだけが残って人をうんざりさせているだけなのだろうか。

そんなことを考えていたらあっという間に30分が経っていた。速足で家路を急ぐ。湯があふれてしまっては何とも風情がないではないか。ドアを開ける。風呂を覗く。お湯は湯船の三分の一ほどもたまっていなかった。僕はため息をつき、蛇口を思いきり反時計回りにひねった。「もうすこし散歩してくればよかったな」